2026-08-04 Rev. Hernandez

8.4.26 Rev. Mark Hernandez Messge-JP Sub

Rev・マーク・ヘルナンデス メッセージ

2026年8月4日

全文訳

(拍手とともにヘルナンデス牧師を迎える)皆さん、こんばんは。今夜お証しをさせていただけないかと、一週間ほど前に隆一さんから声をかけていただいたことを感謝しています。

私はいわゆる学者ではありません。統一運動に入って最初の19年間は、募金や事業の分野で過ごしてきました。その後、故郷に戻り、宗族メシヤとして勝利をもたらそうと懸命に努めてきました。しかし正直なところ、告白すべきことがあります。それは、私一人の力ではここに立つことはできなかった、ということです。

イエス様がいなければ、私は今ここにいません。イエス様は私を真の父母様のもとへと導いてくださった救い主です。そして今夜は、ダラスにある天心苑での祈りを通して得た実りの一部を、皆さんと分かち合いたいと思います。

それは、Rev.ダンクリー会長が繰り返し語っておられること、そしてキリスト教全体がイエス様の本質を理解してこなかったと語られたお母様のみ言葉に、大いに励まされてのことでした。私はそのみ言葉を、もしかすると私たち、いや私自身にも当てはまることなのだと受け止めました。私はイエス様のことを分かっているつもりでした。

とても自信がありました。イエス様との歩みは、幼い頃、カトリックの少年として堅信礼(カトリックにおいて、信仰を自覚的に確認し聖霊による恵みを受ける成人洗礼的な儀式)を受けたときに始まりました。10歳、11歳の頃のその時期を通して、私の歩みは始まったのです。

「イエス様の声が聞こえたのか」「実際に耳で聞こえたのか」と聞かれることがあります。いいえ、そうではありません。その声は、私の内側から響いてくるものでした。

それでも、イエス様の本質について深く祈るようにとお母様が私たちに語られたとき、私はある思いを抱きました。というのも、2017年、ソウル西方の大きなスタジアムで行われた「韓半島平和統一のための集会」にお母様とご一緒させていただき、また天苑宮の起工式にも参加させていただいたからです。

お母様はただただ泣いておられました。天の父母様のための家を地上に建てるまでにこれほど長い年月がかかったことを、神様の前ですすり泣きながら悔い改めておられたのです。そして、それが実現していなかったことに全責任を負って悔い改め、必ず実現させると決意されました。それは必ず成し遂げられる、と。

私はACLC(米国聖職者指導者会議)に長く関わってきました。そして、私にとって最大の心痛は、私たちが本当の意味で突破することができずにいる、ということでした。

この2年間、特に祈りを重ねる中で私が感じたのは、その原因は、私たちがイエス様への愛を宣言し、イエス様の勝利、そしてその勝利の中心性、独生子としてのイエス様がいかに重要な存在であるかを本当の意味で理解し、突破してこなかったことにあるのではないか、ということでした。

幼い少年だった頃の私は、自分に父母が必要であるとは思いもしませんでした。夫婦として、父母として、完全な形で存在するメシアが必要だとは考えていなかったのです。ただイエス様お一人だと思っていました。

しかし、統一運動に出会う以前から、イエス様は私に堕落についての理解を分け与えてくださっていました。実際、イエス様が私に教えてくださったことは、お母様が語られることと非常に似ていました。お母様はルーシェルの影響について多くを語られるのではなく、むしろアダムとエバが成長し、成熟し、責任を全うすべきであったというその責任性に重きを置いておられます。

それでは本題に入らせていただきます。あまり長くならないようにしたいと思います。今日はパワーポイントを使ってお話ししたいと思います。

(画面共有の確認などのやり取り)画面は見えていますでしょうか……大丈夫そうですね。ありがとうございます。

実はこのメッセージは、6月にヒューストンでお話ししたもので、数週間前にはここダラスでもお話しさせていただきました。タイトルは「新しいぶどう酒――イエス様の本質、ヤシュア・マシアハ(Yeshua Mashiach)、独生子」です。

天心苑に行って祈っていたとき、私はずっと考えていました。「どうすればこれを分かち合えるだろうか」と。まず何よりも、聖なる祝福結婚――今このミーティングの画面の前にいる私たちのほとんどが受けてきたこの祝福――を実現する上でのイエス様の役割を、どうすればキリスト教の兄弟姉妹たちに突破して伝えることができるだろうか、と。独身でまだ祝福を受けていない方を除けば、私たちのほとんどはこの祝福を受けた者たちです。

私たちはしばしば「新しいぶどう酒」についてのみ言葉を引用します。これはマルコ、マタイ、ルカの三つの福音書すべてに登場する箇所です。そのいずれにおいても、イエス様は弟子たちと食事を共にしておられます。

ある福音書では人々から尋ねられたとあり、また別の福音書ではバプテスマのヨハネの弟子たちがイエス様に、「なぜヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、あなたの弟子たちは断食をしないのですか」と尋ねたとあります。イエス様はこう答えられました。「花婿が一緒にいるのに、花婿の友人たちが断食できるだろうか。花婿が共にいる間は断食できない。しかし、花婿が取り去られる時が来る。その日には彼らも断食するであろう」と。

そしてイエス様は、マルコ、マタイ、ルカのいずれの福音書においても、ご自身を花婿であると語られた直後に、次のように続けておられます。「誰も、真新しい布切れを古い衣に継ぎ当てたりはしない。そうすれば、その継ぎ当てが古い衣を引き裂き、破れはさらにひどくなるからだ。また、誰も新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしない。そうすれば、ぶどう酒が皮袋を破り、ぶどう酒も皮袋も両方とも駄目になってしまうからだ。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるものである」。

天心苑で祈っていたとき、このみ言葉が私に強く迫ってきました。そして私は、イエス様がまさにここで「新しいぶどう酒」を語っておられるのだと確信するに至りました。なぜなら、花嫁がいなければ、あるいは花嫁を探し求めているのでなければ、また自分に釣り合う花嫁を持つべきだと分かっていなければ、花婿になることはできないからです。

もちろん、イエス様がここで語っておられる花婿とはご自身のことです。そしてイエス様は預言的に、花婿がこの人々と共にいなくなる時が来る、その日には彼らも断食するであろうと語っておられます。他の福音書の記述では、断食というよりもむしろ、花婿の不在を悲しみ嘆く「哀悼」という表現がより強く用いられています。

また、私たちが知っているように、イエス様は人々に語りたいこと、ご自身の心にあることがまだたくさんあると言われました。そして、たびたび一人退いて、思いを巡らし、涙を流し、祈られる場面が福音書の随所に見られます。

私にとって特に力強く感じられるみ言葉の一つが、「今わたしはたとえや象徴を用いて語っているが、もはやそのような言葉を用いず、あなたがたに父についてはっきりと告げる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるであろう。わたしがあなたがたに代わって父に願うと言っているのではない。あなたがたがわたしを愛し……それゆえ父ご自身があなたがたを愛しておられるからである」というみ言葉です。

しかし、私が祈りの中で本当に掘り起こされたことがあります。そして皆さん一人一人に、天心苑で祈っていただきたいと心からお勧めしたいのです。もしすでに、イエス様を通して真の父母様のもとに導かれたのだと分かっているなら、そのことを深く祈ってください。もしまだそうでないなら、それでも、これほどまでに素晴らしく、これほどまでに無私で、これほどまでに謙遜な独生子について理解できるようにと、祈っていただきたいのです。

今日、天心苑に行って祈っていたとき、私に迫ってきたのは次のようなことでした。お母様は自叙伝の中で、またお父様もみ言葉の中で、お二人がいかにして互いを持つことができたかについて語っておられます。もちろん、お父様が40歳になられるまで、お母様とご結婚されるまでは、そうではありませんでした。しかしご結婚後は、お互いの目を見つめ合うだけで、多くの言葉を交わさなくとも、お母様はお父様のお心を読み取ることができ、お父様もお母様のお心を理解することができました。お母様がどれほどお父様を満たし、またお父様がどれほどお母様を満たされたか、私たちは決して完全には知り得ないのだと思います。

しかしイエス様は――私に迫ってきたのは、イエス様こそ、この上なく孤独な方であられたということでした。天の父母様と完全に一つになられた心をお持ちでありながら、ご自身が真のアダム、真の息子であることを自覚しておられながら、その心を分かち合う相手が誰一人としていなかったのです。

お母様がミュンヘンで語られたこのみ言葉は、非常に力強いものです。お母様はこのようにスピーチを始めておられます。これもRev.ダンクリー会長が分かち合ってくださっていることですが、皆さんにもぜひこのスピーチを読んでいただきたいと思います。

「今日はペンテコステです。今、あなたがたの前にいるのは誰でしょうか。イエス・キリストと、実体聖霊である独生女、ワン・オンマが、共にここにおられます。私がここにいるのは、イエス様の望みのゆえです。」

再臨の約束に頼るほかなかったキリスト教は、使徒たちが聖霊による復活を体験することを通して始まりました。

お母様は改めて、キリスト教は2000年以上の歴史を持ちながらも、残念ながらイエス様の本質を理解してこなかったと語られます。同様に、1960年から基元節に至るまでの荒野路程においても、私たちはお母様が真のお母様であることは知っていても、お母様が本当はどなたであるのかを知りませんでした。お母様の真の正体、そして神様の摂理の完成にとってお母様の存在がいかに重要であるかを、私たちは知らなかったのです。

マリアでさえ、イエス様の真の本質を理解していませんでした。お母様は、原理が救いには男性と女性の両方が必要であることを明確に示していると語られます。

そして、私たちが読んでいる書籍『天の摂理から見た真の父母様の位相と価値』(通称「パープルブック」)からの引用です。――印刷が正確でなかったかもしれませんが、その趣旨は次の通りです。当時の中心人物たちと人々の失敗のゆえに、イエス様は一人でその道を歩まなければなりませんでしたが、それでも独生子として、再臨の時に本然の責任が果たされるための基台を築かれました。そしてお母様は、「イエス様は独生子として来られ、独生子として残されたその勝利の基台は、永遠に残る」と結論づけておられます。

天心苑で、イエス様がご自身が何者であるかをこれほどまでによくご存じであったことを悟り、私がどれほど涙を流したか、この場で十分にお伝えすることはできません。

こう申し上げるのは、決してイエス様の栄誉を損なうためではありません。しかし、イエス様は容易く、「自分は真の人間であり、心情の完成を成し遂げた。だから誰であれ女性を伴侶として立てることができる」と自分に言い聞かせることもできたはずです。しかしイエス様は真実をご存じでした。イエス様は、その真実を心の奥底から知っておられたのです。

ご自身にとってふさわしい方はただ独生女おひとりであること、神様が備えられたその方以外にはいないことを、イエス様はご存じでした。

ですから、イエス様が苦い杯を受け、十字架の道を歩まれたとき、それはこの上なく無私な形で、未来のための基台を築くために歩まれた道だったのです。お母様が語られるように、独生子イエス様は、再臨の時に本然の責任が果たされるための基台を築かれました。そしてイエス様が残されたその基台は、永遠に残るのです。

2014年、お母様が初めてご自身を独生女として宣言されたとき、おそらく皆さんの多くと同じように、私も「お父様が何か手がかりとなるみ言葉を残しておいてくださっていたら、それを理解する助けになったのに」と思ったものでした。

そこで実際に、旧版(黒表紙)の天聖経の中で、以前読んだ記憶のある箇所を探してみたところ、見つけることができました。英語版ページ「2244、2243」にあります。

その一帯の記述は、実に驚くべきものです。お父様は、マリアの責任について、またアダムとエバがもし成熟していたならばどのような立場にあったか、そして神様が持たれるはずであった息子と娘について語っておられます。

彼らは肉体的にだけでなく、霊的にも互いに愛するようになっていました。

その位置において、アダムは父なる神様と縦的に一つになることができ、エバは父と娘の位置において神様と一つになることができました。

そのときアダムとエバが願っていた位置は、一つになる位置でした。

そして神様とエバも一つとなり、アダムを願ったでしょう。

横的には、神様とアダム、そして神様とエバという三者がいます。この三者は完全に一つになることを願います。

52-261,1972.1.2 

そして、お父様ご自身の召命が、イエス様から受けられた深く強烈な感銘を通してなされたということ――お父様はそれを生涯忘れることはないと語っておられます。2014年、この箇所は特に私の心に飛び込んできました。

エバによって本来の理想的なアダムとエバの二人とも壊れたのです。

したがって理想的な後のアダムとして来られたイエス様の前に、堕落したエバ、すなわちマリアが、イエス様の妻となるエバを復帰してあげなければならないというのです。

復帰するには、マリア一人だけで行ってはいけません。

創造主がアダムを中心としてエバを造られた時にも天使長が協助したので、復帰歴史を完成するため、後のアダムに倣ってエバを造る時にも、天使長が協助しなければなりません。

それによってエバが復帰されることができるのです。

そうしてイエス様と復帰されたエバが一つになる働きをしなければなりません。

そうではありませんか。

天使と天使長の立場である僕たちが、アダムの立場であるイエス様を中心としてエバの立場である娘を創造したなら、その娘は堕落していない神様の娘ではありませんか。

原則的にそうでしょう。

マリアとヨセフがその神様の娘とイエス様を祝福してあげなければなりません。

ここで神様の娘と神様の息子が一つになるのです。

そして、私にとって特に印象深いのは、その同じページのすぐ近くで、お父様が、先ほどお母様が語られたのと非常によく似た形で、イエス様について語っておられることです。

しかしユダヤ民族がイエス様を受け入れなかったため、イエス様は一人で国家と世界のために自分自身を犠牲にすることを決意しました。

イエス様は家族を離れなければならず、孤独に暮らさなければなりませんでした。

しかし神様の愛を受けました。

結局、堕落したアダムとエバを救うために堕落していない兄弟が犠牲にならなければならなかったように、イエス様は他の人々のためにご自身を犠牲にされたのです。

すべての人が堕落したアダムとエバの位置にいました。

イエス様はその人々のために自分自身を犠牲にしました。

供え物となったのです。

ご自分を殺そうとする人々を呪いませんでした。

むしろ神様に、彼らを祝福してくださるようお願いし、祈られました。

そのためイエス様は、神様と堕落したアダムとエバとの間に仲保者として立ったのです。

イエス様は堕落していないアダムへと戻りました。

そして全世界人類の救援のための公式的な道を歩みました。

そのため、イエス様は、彼に従う者なら誰でも救われることのできる代表的なアダムとなったのです。

52-66,1971.12.22 

ですから皆さん、どうか心に留めていただきたいのです。イエス様は、アダムとエバを再び立てるために必要な、ただ二人の存在――それが独生子と独生女であることを知っておられました。

イエス様は一つの条件を立てる必要がありました。それは、未来において再臨主が、神様の遣わされる独生女を見出すための基台となり、真の父母様が立てられ、神様の夢が実現し、聖なる祝福が執り行われ、全人類が祝福結婚を通して神様の血統を継承できるようにするためでした。

イエス様は決して脇役ではありません。イエス様は、私たちが地上に真の父母様を持つことができるための、まさに中心におられる方なのです。

もしイエス様がそのお立場を、独生子としてのお立場を離れておられたなら、神様が新たな条件を立て、勝利した真のアダムを遣わされるまでに、どれほどの歳月がかかったか分かりません。

しかしイエス様は、勝利した真のアダムとして霊界に行かれ、未来において時が満ちたとき、神様が独生女を遣わされ得るための条件を立てられました。それはすでに進められていたことであり、イエス様はご自身の御業を完成させるにふさわしい、驚くべき方を呼び起こすことができたのです。もちろん、それが私たちの真のお父様であり、その方が「小羊の婚宴」を共に立てることのできる神様の娘こそ、私たちの真のお母様なのです。

さかのぼって8月、隆一さんにこのことを分かち合ったとき、その部屋には私たち二人だけでした。私たちは二人とも、涙を流しながら泣いていました。

今夜はそこまでお話しすることはできませんでしたが、皆さん一人一人が、イエス様について、そしてそのイエス様の無私の愛について、祈っていただきたいと心から願っています。私たちは、イエス様を十分に愛してきたでしょうか。イエス様に十分に感謝してきたでしょうか。腹中教と、イエス様のために衣服を作っていたすべての方々のことを思うとき、それでもなお、私たちはイエス様の本質を理解していなかったのだと感じます。

私たちはイエス様の本質を理解していませんでした。そして、救いには独生女が必要であるということも、どのような形であれ理解していなかったのです。兄弟姉妹の皆さん、ありがとうございました。それでは画面共有を終えさせていただきます。ありがとうございました。


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2026-08-06 Lecture:Heavenly Mother#2 by Mrs. Dr. Selover